俺らしく過ごせなかった高校生活

中学時代、塾や家庭で色々孤独もあったけど親友ミタニをはじめ音楽やGuitarにも出会い沢山の素晴らしい学校の仲間達に囲まれ過ごした中学校を卒業して高校に入学する事になった俺。


その時もまだ吉祥寺に住んでたから吉祥寺から近い荻窪の高校に通う事にして高校生活が始まるんだけどその高校には同じ中学校の人は1人もいなくてある意味全てリセットされた状態でスタートする事になった。


その当時の俺が高校に行く理由で唯一の楽しみにしていたのが自分の中学校には存在しなかった軽音部1択で毎日緊張しながら高校に通い始めたんだけど、そもそもその高校の人達と俺の毛色が完全に違くて中学時代に通ってた塾ほどではないんだけど馴染めず心から楽しめなかった記憶が強くある。


簡単に言って「テレビゲーム」の世界か、懐かしい言い方をすると「池袋ウエストゲートパーク」の世界、どっちのグループに入るかって2択だけの世界がそこにはあって俺は音楽の世界だけに浸りその事だけ考えたかったから今思うと知らず知らずのうちに自分自身で汎用性の高い無難な形をした仮面を毎日被っていたかもしれない。


けれど、そんな場繋ぎな本来の自分を消した仮面を被っていても魂と身体には不健康で、だんだん高校に行く事に違和感を感じ


「行って来まーす!」って朝家出るんだけどそのまま自転車漕いで逃亡する行為にでる。


これはまさに中学時代の塾に通っていた時と完全に同じだ。


もうその頃にはインディーズV-ROCKにも詳しくなってて自転車で吉祥寺から青梅街道に差し掛かる場所に辿り着くと、そのままひたすら真っ直ぐ進み新宿に行ってライカエジソンに行ってみたり自主盤倶楽部に行ってDué le quartz様やBAROQUE様の音源を見たり買ったりしてそのまま荻窪に戻って少し授業を受けて数少ない仲間と下校し帰宅、そんな日々を過ごしていたよ。



そして俺は高校2年生になって、姉は高校を卒業して


「もう姉も大人になったから浅草で2人で暮らしてみたら?」


と、親戚の提案により住み慣れた吉祥寺からまた浅草の家族と過ごした家に姉と2人で戻って暮らす事になって今度はそこから荻窪の高校に通う事になる。


浅草から荻窪、距離も遠くなると余計に高校への遅刻は増えるわけで、いよいよ担任の先生に心配されると同時にクラスのとある1人に目をつけられ度々、圧をかけられるようになりその圧の頻度は日に日にだんだん増えていく。


というのも俺は当時からV-ROCKを心の底から愛してたからだんだんと汎用性の高い無難な形をした仮面も少し剥がれて黒髪だけど、今の俺みたいに襟足長くて片目を髪で隠して、更に黒いマニキュアを塗っていたからね。笑



そんな事もあり、より遅刻は増えて遂には進学出来ない事が決定する。




親戚に呼び出され言われた


「この先どうするの?」


俺は迷う事なく言った


「バンドです。音楽をやってく」


親戚「できるもんならその道でやってみなさい」





以上。







想像していたよりも話はあっさり終わった。






この話を担任の先生に伝えて御礼を言ってその後すぐに高校とはお別れをした。


唯一、当時1番仲良くしていただいてた友達1人だけに最後の登校の日の下校中に「実は今日で最後なんだ。今まで沢山ありがとう」



って事だけ伝えて。




高校2年生の2月頃だった。









今の俺が当時を振り返って想うのは、



当時の高校登校中に自転車に乗って遠くに行って現実から逃げていたのではなく、自分自身が本来あるべき姿、居るべき場所を魂が理解し熟知していて高校がその場所とは全く関係が無く俺にとってはむしろ可能性が全く広がらない時間を捨てにいくような場所と環境だったからだ。



そして、あのタイミングで高校を中退できたからこそ、色々な歯車が周りタイミングが重なりその数年後にDaizyStripperメンバーに出会えて今がある。




今回の話の続きもまた今度。









追伸


高校のクラスの

とある1人の俺に目をつけ度々、圧をかけてくれた彼にもこの場を借りて心の底から純粋な気持ちで感謝を伝えたい。



「これ以上、彼とは関わりたく無い」と言う気持ちも膨らんだからこそ俺は想像よりも早くあの場所から離れる事ができたよ





俺にとって彼は素晴らしき邪魔者だ